2006年07月23日

『共にいます神

主たる聖書テキスト: マタイによる福音書 28章16〜21節


 旧新約聖書を通じて一貫したメッセージとは、神我らと共にいま
す、ということだと言える。創世記の族長物語にも、繰り返し「神
が共におられた」と語られる。神が共におられるとは、どういうこ
とだろうか。

 与えられた聖書箇所は、マタイ福音書の結び、復活の主がガリラ
ヤで弟子たちに再会し、宣教へと派遣される場面である。四福音書
中、ただマタイだけが、ガリラヤでの復活顕現を記す。それは弟子
たちにとって主に招かれた原点であり、新しい使命を与えられて再
出発するのにふさわしい場であったからだろう。

 イスカリオテのユダを除く十一人の弟子たちは、主に示された山
(啓示の場)に登り、主に会ってひれ伏す。しかし、疑う者もいた。
これは、或る者は主を礼拝し、或る者は疑った、というのではなく、
十一人すべてが主にひれ伏しつつ疑いの心を抱いていた、というこ
とかもしれない。主の招きに応えて礼拝の場に集い、共に讃美し、
御言を聞き、祈る、その只中で心に疑いを抱く、信じて委ねきれな
い思いを抱えている、そういうことが我々にもあるのではないだろ
うか。ユダならずとも、全員が主を見捨てて逃げ去った、と聖書が
明言する弟子たちは、たしかに主の復活の知らせを喜び、主に再会
してやり直すことを願っていただろう。しかし、疑いや迷いは、そ
の弟子たちの中になおとどまっていた。聖書は疑うことなく主に信
頼せよ、と語る。しかしその一方で、復活の主は弟子たちの(また
我々の)疑いをご存知であり、その弟子たちに語りかけ、宣教の業
へと遣わされる。

 主は自ら弟子たちに近づき(弟子たちの恐れや恥や悔い、疑いが
もたらした距離を、主ご自身が埋められる)、宣教命令を語られる。
復活の主は、天と地の一切の権能を授かった方である。天とは神の
座、神の御心が実現する世界であり地とは人間の場、御心が妨げら
れ、損なわれている世界であるが、神は天のみならず地に御心の実
現を願って主イエスを遣わされ、我々にも地に御心の成ることを祈
るよう求められる。復活の主は、神の国の完成に至るまでこの世界
を治められる真の王となられた。

 主はその支配と権能をもって弟子たちを遣わし、すべての民をご
自分の弟子とせよ、と言われる。神の救いがすべての民へともたら
される、という普遍主義がここに現われる。主イエスの働きが専ら
イスラエルのためになされるように語るマタイ福音書は、しかし、
第二イザヤの預言に沿って、神の救いがまずイスラエルに、そして
全異邦人に伝えられることを示している。

 主は、ご自分の弟子とされるすべての人々に父と子と聖霊の名に
よって洗礼を授けるように、と命じられる。この(我々にとって定
式化された)言い方は新約聖書中マタイのこの箇所のみに現われる
が、「イエスの名による洗礼」と本質的に変わりはない、罪の赦し
と新しい命へのよみがえりを表すものである。

 そして、洗礼を受けた者には、「あなたがたに命じておいたこと
をすべて守るように」教えよ、と主は言われる。この内容は、主と
して山上の説教の中にあると考えられている。そこには主イエスに
従う者の基本的な(容易とは言えないが)あり方が示されている。
愛敵の教え、復讐の禁止、黄金律等々、イエスを主と信じて従う者
に求められ、またイエスを主とする時にのみ実行可能な規範として
聞きうる教えである。

 最後に主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共に
いる」と宣言される。これは、マタイ福音書の最初と最後に現われ
る、聖書全体の基調をなすメッセージである。福音書の冒頭にはイ
エスの誕生にまつわるエピソードがあり、幼子イエスがインマヌエ
ル、神我らと共にいます、の名で呼ばれる、と告知される。そのイ
ンマヌエルの主が、福音書の結び、すなわち教会の時の始まりにお
いて、再びご自身を「共にいます神」として現わしておられる。

 いつも、と訳された言葉は、あらゆる時に、という意味。あらゆ
る時、あらゆる場において、主は我々と共にいてくださる。内在す
る神である聖霊が我々の内に宿り、主を示し、信仰に生きることを
助けてくださる。のみならず、あの弟子たちのように、我々をも遣
わして、主の福音を伝える者としてくださるのである。この週も、
共にいます主に支えられて歩んでいきたい。

(2006/07/23 野田美由紀牧師)


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