『バルナバとサウロ』
主たる聖書テキスト: 使徒言行録 13章1〜12節
本日の使徒書は使徒言行録13章を与えられました。1〜12節が、本
日のテキストですが、43節まで通して取り上げていきたいと思いま
す。パウロがまだサウロと名乗っていた頃、回心後、修行期間を過
ぎまして、いよいよ伝道活動を開始した、その時の出来事です。回
心後、アンティオキアの教会で、他の信徒たち、使徒たちと共に仕
えていたパウロは、聖霊の導きによって、バルナバと共に選び出さ
れ、いよいよ初めての伝道旅行に出発しました。最初に行きました
ところが、キプロスでした。そこでは、彼らは、神に逆らう魔術師
を撃退しました。そこから彼らは、今で言う小アジアへ渡り、内陸
深く、ピシディア州のアンティオキアに赴いたのです。そこのシナ
ゴグで、安息日に請われて説教をした、その説教が記されています
ので、そこを見てまいりましょう。
会堂では、律法と預言者が朗読されました。つまり、パウロは、
旧約の時代に神がどんなにイスラエルの民を祝福されたか、まずそ
こに目を向けさせるのです。まず、出エジプトです。神は、アブラ
ハムの時の、「あなたがたを大いなる国民とする」とのお約束をお
忘れにはなりませんでした。エジプトの地で彼らが奴隷となってい
た時にも、いやそのもっとも弱いときに、強大なものとして、エジ
プトから導き出してくださったのです。そして、第二に、カナンの
地では、七つの民を滅ぼして、彼らがそこに住み着けるようにして
くださいました。そして、その後、神の御心にかなう王、ダビデを
王の位につけ、さらにその子孫から、救い主イエス・キリストを起
こしてくださったのです。
こうしてみると、旧約の時代の歴史は、神に祝福された栄光の歴
史であって、一点のしみも隙もないように見えるかもしれません。
しかし、現実はそうではありませんでした。このような神のあふれ
るばかりの祝福にもかかわらず、このイスラエルの歴史は、罪の歴
史だったのです。まず第一に、18節にあるように、出エジプトの民
の罪がありました。荒野で、聞くに耐えない、見るに耐えない罪の
行為を繰り返しました。そして、定着してからもしばしば、いや日
常的に、この民は、恵みの神を棄てて、他の神に走りつづけました。
そして、ソロモン以後もこの罪を犯しつづけ、ついにバビロン捕囚
に至るのです。捕囚後もこの民の罪への傾向性は変わりませんでし
た。いわゆる偶像礼拝はなくなったものの、律法にしばりつけられ
て神を見失う罪を犯しつづけ、ついに神から遣わされた救い主、主
イエス・キリストを十字架にかけて殺してしまうのです。
さて、この矛盾、他の民族がうらやむほどのあふれんばかりの祝
福の一方で、聞くに、見るに耐えない罪の歴史、この矛盾の中で、
イスラエルの民に何が求められているのでしょうか。それが、悔い
改め(24節)だったのです。イスラエルの民に求められていたのは、
神の祝福のみに目を止めて、自分たちを「神に選ばれた民、選民」
として正当化することではありませんでした。また、一方、罪の現
実を突きつけられた時、開き直り、そこに留まって、神に反抗しつ
づけることでもありませんでした。罪の現実にもかかわらず、祝福
をもって待っておられる主のもとに立ち返り、自分の罪を告白し、
悔い改めの人生を歩む決心をする、そのことこそが求められていた
のです。
パウロは、この悔い改めの民に神が何を用意しておられるか、は
っきり述べています。それは罪の赦し(38節)です。神が罪の赦しを
用意していてくださるのですから、安心して、神の懐に飛び込もう
ではありませんか。
パウロのこの言葉を聞いて、多くの人が悔い改めました。そして、
この人々によって福音は語り継がれ、世界に宣べ伝えられていった
のです。
このイスラエルの歴史は、そのまま教会の歴史です。教会も神様
からたくさんの祝福と恵みとを頂いて育まれてきました。しかし、
実態はどうでしょうか。私たちは、本当に神を第一としているでし
ょうか。お金や名誉を第一として、他の神に仕えてはいないでしょ
うか。こういう罪の病気は放っておくと蔓延して、ついには教会を
滅ぼしてしまいます。私たちも、パウロの言葉を聞いて信じた聴衆
のように、「自分を罪びとだと認め」「神の祝福を認め」「悔い改
めて」キリストに自分を明け渡しましょう。他の何ものもいりませ
ん。悔い改めのみが求められています。
(2006/07/02 三宅宣幸牧師)
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