2006年06月11日

『神の子として

主たる聖書テキスト: ローマの信徒への手紙 8章12〜17節


 パウロは、わたしたち(キリスト者)には義務があると言います。
しかし、それは肉に従うことではないと言います。肉に従うことで
は生きられない(死ぬ)からです。肉に従うという言葉は分かりに
くい言葉ですが、換言すればそれは罪に従うということを意味しま
す(「罪が支払う報酬は死」という言葉を参照。ローマ6章23節)。
また、罪に従うということは、神に従わないということに他なりま
せん。つまり、肉(自分の欲望、あるいは悪霊と考えてもよい)に
従うということは、そのことによって神との関係を絶ってしまう。
神を愛さない者になってしまうということです。

 わたしたちは自分の生活を振り返ってみるとどうでしょうか。
「自分は神に従っている、神をいついかなる時にも愛している。ま
た、隣人を愛している」と胸をはって言える人はいないのではない
でしょうか。むしろ、わたしたちはいつも神から離れ、肉の欲に従
って生きていると言わざるを得ないような状況があるのではないで
しょうか。しかし、もしそうだとしたら、わたしたちは神の前に立
つことはできないのではないでしょうか。

 しかし、パウロは死から生に戻される道があり。それは霊によっ
て体の仕業を絶つことだと言います。

 霊とは聖霊のことです。聖霊を受けることによってわたしたちは
心と体を支配する罪の力から解放されて、死から生に移されるので
す。

 わたしたちは罪の支配のもとに生きていた者ですから、神の厳し
い審きを受け、滅ばされても仕方のない者です。しかし、そのわた
したちを神はキリストの十字架の死と復活を通して罪をゆるし、新
しい命に生きることを得させてくださっているのです。

 ルカ福音書15章に「放蕩息子のたとえ」があります。このたとえ
の中で弟が語っている有名な言葉「お父さん、私は天に対しても、
またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格
はありません。雇い人の一人にしてください。」を思い起こしてみ
ましょう。息子は自分の身勝手で父親のもとを離れ、父親の心配を
よそに放蕩の限りを尽くした挙句、食べるものにも困り果て、つい
に死にそうになったところで本心に立ち返りました。しかし、いま
さら父親のもとに帰ったところで父親が自分をゆるして受け入れて
くれるかわかりません。

 けれども恐れを抱きつつ故郷に帰った息子を父親は喜んで受け入
れ、盛大な祝宴を開いてくれました。(聖餐式にあずかる喜びを想
い起こします)

 このたとえは、パウロの「この霊によってわたしたちは、アッバ
父よと呼ぶのです」という

 言葉を理解する大きな手がかりとなるように思います。
 わたしたちは罪に支配されて生きていた時は神を「父」と親しく
呼ぶことは出来ませんでした。しかし、神はわたしたちの心に聖霊
をおくってくださり、キリストの十字架と復活によって示された神
の限りなく深い愛と憐みを理解させ信じさせてくださいました。

 そして、いまわたしたちはこの聖霊の促しによって、こころから
の感謝と信頼をもって神に向かって「天にまします我らの父よ」と
呼びかけ、「願わくはみ名をあがめさせたまえ、み国をきたらせ名
をあがめさせたまえ、み国をきたらせたまえ」と主の祈りを祈るこ
とができるのです。

 最後に、先週の礼拝はペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝を一緒に
ささげました。2000年前に弟子たちに与えられた聖霊の息吹が今日
のわたしたちにも豊かに与えられています。そして、聖霊はわたし
たちを絶えず正しい信仰の道に導くとともに、人生の途上において、
人と物を通して現れるさまざまな誘惑からわたしたちを守り、神の
国に向かって歩む勇気と力を与えてくれます。

 今日からまた新しい一週間が始まります。聖霊の支配のもとに過
ごすことができれば幸いなことです。

(2006/06/11 石井道夫牧師)

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