『聖霊が共にいる』
主たる聖書テキスト: 使徒言行録 2章1〜11節
人は負い目を負っていると、元気が出ません。力が湧きません。
何か新しいことにチャレンジしてみようと思っても、また失敗する
のではないか、と思うと躊躇してしまいます。このような悩み、痛
みを、「良心的な」人はみな心の奥底に抱えているのではないでし
ょうか。
実は、主イエスの弟子たちも、主イエスの復活後も、負い目を負
い、落ち込みの中に生きていたのです。弟子の代表であるペトロに
ついて見てみましょう。彼はもともとガリラヤの漁師でありました
が、主イエスに見出され。弟子となり、そして弟子の筆頭となって、
自信に満ちた歩みを歩んでまいります。ペトロをはじめとする12人
の弟子たちは、使徒と名づけられ、主イエスのそばに置かれ、派遣
され、宣教を任され、悪霊を追い出す権能まで与えられたのです。
(マルコ3:13〜)実は、ペトロは本名をシモンと言ったのですが、主
イエスからペトロ(=岩)という名を与えられ、主イエスは、この岩
の上に教会を建てるとまで言われたのでした。(マタイ16:18)ここま
で主イエスに見込まれ、愛されたペトロですから、その主イエスの
期待に応えようと頑張ったことでしょう。それゆえ、主イエスが受
難の予告をなさったとき、「たとえ、みんながつまづいても、わた
しはつまづきません。」とまで豪語したのです。
しかし、現実はどうでしたでしょうか。ペトロは、主イエスが大
祭司の邸で裁判を受けているとき、その中庭まで行きました。しか
し、女中の一人に、「あなたはあのナザレのイエスと一緒にいた。」
と言われると、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには
わからないし、見当もつかない。」とう。」と打ち消してしまうの
です。同じことは三べん繰り返され、最後は居合わせた連中に、
「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤのもの者だから。」
と言われ、彼はついに、呪いのことばさえ口にしながら、「あなた
がたの言っているそんな人は知らない。」と誓い始めてしまうので
す。時に失敗をしたという程度のことでしたら、許されもするでし
ょう。しかし、これだけはしてはいけない裏切りを、しかも肝心の
場面で、主イエスが予告なすっていたとおりにしてしまった。その
ことに気が付いたとき、ペトロは激しく泣いたのです。しかし、取
り返しがつかない。これ以後、彼は、立ち直り不可能というところ
まで、落ち込んでしまうのです。主イエスの前へ出てどうだったで
しょうか。復活の主は、自らペトロのところへ現れてくださいまし
た。しかし、主イエスの前で、ペトロは元気が出たでしょうか。い
いえ、主イエスの前でますます落ち込むこととなったのです。彼は
より深く自分の罪をおぼえることとなったのです。(ヨハネ21:15〜)
もし、主イエスの出来事がここで終わってしまっていたら、キリ
ストがなさった教えも業も、さらには贖いの死も復活も、単なる歴
史的事件として忘れ去られてしまっていたかもしれません。ところ
が、創造の業以来、この世の営みに直接手をお下しになることをお
控えになっていらした神が、霊を直接下されるという形で介入され
た、これが聖霊降臨の出来事なのです。
五旬祭(ペンテコステ)の日、これは過越祭から50日目に行われる
ユダヤ教の祭の日ですが、弟子をはじめとする一同が一つになって、
おそらく祈っていると、突然激しい風が吹いてくるような音が天か
ら聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたのです。そして、炎のよ
うな舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に止まったのです。私
たちは「上から」という言葉に注目しましょう。この出来事は、神
から起こされた出来事なのです。天から下された霊は、風のごとく
自由自在、炎のごとく何ものをも焼き尽くす力をもっていたのです。
さて、弟子たちは、この聖霊を受けてどのように変わったのでし
ょうか。霊を受けたからといって、興奮状態になったのではありま
せん。彼らは「ふつう」になったのであります。しかし、「ふつう」
は「ふつう」でも、ただの「ふつう」ではなく、神が天地を造られ
たとき、人に命の息を吹き入れられ、「このように生きなさい。」
とお定めになった、そのような「ふつう」なのです。人は罪によっ
て負い目を負うことによってこの「ふつう」からずいぶん離れてし
まいました。それが上から霊を戴いて上を向かせられ、神の愛が、
贖いの愛がストンと入ってきて、新たな命に生きることができるよ
うになったのです。 私たちも霊を戴いて上を向かせていただきまし
ょう。
(2006/06/04 三宅宣幸牧師)
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