『アジアの地で徒労にかける』
主たる聖書テキスト: ルカによる福音書 5章1〜11節
本日はアジアの諸教会を共に祈りに覚える、アジア祈祷日礼拝で
す。今年は、ネパールのキリスト者を覚えることが奨められていま
す。ネパールは美しい国です。有名なエベレストを含む世界最高峰
10傑のうち8つが存在します。しかしながら、ネパールは現在、世
界最貧国の1つです。また、新聞で報道されているように、最近、
王制が倒れ、民主化が進められようとしています。ネパールのキリ
スト者は、人口2600万人の約3%で、70万人弱の少数者です。信教
の自由が実質的には機能しておらず、キリスト者への迫害や弾圧が
頻繁に行われています。ネパールのキリスト者にとって、神の召命
に従って生きることは、多くの困難が伴い、「徒労にかける」よう
な思いで、信仰を守っている人が多くいることを知らされます。
本日のルカによる福音書には、イエスが弟子たちを招く、召命物
語が描かれています。あまり常識的な物語とは言えません。この物
語はマタイの4章にも同様な物語として書かれています。マタイで
は、「イエスがガラリヤの海辺を歩いておられた」という記述で始
まります。ガリラヤというところは、辺境の地で、人々から余り注
目されていない場所でした。イエスの12弟子の大半は、このガリ
ラヤの漁師で、肩書きもなく、学歴もなく、地位もない人たちでし
た。マタイの福音書では、弟子となったペテロとアンデレは、イエ
スと最初に出会ったのが、このガリラヤであることを記しています。
また、ヤコブとヨハネも、イエスに招かれると、自分の船と家族を
おいて、まるで家出でもするように、すぐにイエスに従ったと、書
かれています。これもかなり非常識なことです。
今日のテキストのルカの5章に至っては、シモン・ペテロとアン
デレの非常識な行動が、さらに詳しく書かれています。3節のとこ
ろで、朝早く、漁を終えて網を洗っているシモン・ペテロとアンデ
レに、イエスは「船を出して網をおろして見なさい」と言います。
シモン・ペテロとアンデレはプロの漁師です。そのプロに向かって、
魚を捕ることに関しては素人のイエスが、プロの漁師に「沖に出て、
網をおろして見なさい」と命じたのです。5節のところで、シモン・
ペテロはさすがに、「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何
もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろして見ましょう」と言います。
ここが、この物語の急所です。このシモンの行いによって、価値の
転換、習慣、常識、経験則の壁が突き崩されます。今までの常識を
越えた働きが展開されるのです。「しかし、お言葉ですから、網を
降ろして見ましょう」というシモンの行いは、「徒労にかけてみる」、
「無駄なことにかけて見る」ということに他なりません。常識の枠
に閉じこもらない力を信仰は私たちに与えるのです。シモンのイエ
スへの信頼と信仰が常識の枠を超える決断を導いたと言えるでしょ
う。
ネパールを初めとして、アジアの地で信仰に生き、「徒労」と思
われるような、神の招きに応答するキリスト者を覚え、共に歩みた
いと思います。
(2006/05/28 山本俊正牧師)
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