2006年05月14日

『わたしの母とはだれか

主たる聖書テキスト: マタイ福音書 12章46節〜50節


 母の日は、1907年米国ウエストバージニア州で教師をしていたア
ンナ・ジャービスという女性が、自分の教会学校の教師であった亡
き母親を覚えて教会で記念会をもち、参会者に白いカーネーション
を贈ったことが始まりといわれています。そしてジャービスは、母
の3周忌にあたる5月8日に、友人たちに、母の日を作り国中で祝
うことを提案し、翌年にはジャービスが勤務していた学校に多くの
生徒と母親が集まり最初の「母の日」が祝われ、出席者には赤いカー
ネーションが贈られました。こうした後、ジャービスの母を想う心
が多くの人々に共感をもって迎えられるようになり、やがて母の日
は、1914年米国の祝日となり、5月の第2週の日曜日に定着するこ
とになります。

 また、日本では大正期に宣教師によって、教会やキリスト教学校
に母の日が紹介され、次第に日本の社会に受け入れられていくこと
になりました。

 このように、母の日は元来教会的背景を持った行事であるという
ことを忘れてはなりません。これを忘れると母の日は単なるイベン
トと化してしまいます。

 ところで、花の詩画集で知られる星野富弘さんの「風の旅」と題
された本の中に、母を思う子の心を記した言葉があります。「冬服
に着替えた日ほのかなやさしさが私をつつんだ。それは樟脳のにお
いだった。運動会に来てくれた母の装った母のきものの裾のにおい
だった。」というものです。この詩には子を思う親の心、親を思う
子の心が見事に映し出されているように思います。しかし、残念な
ことですが今日私たちの周囲で起こっている事件を見ると、母は必
ずしも子を愛するということではなく、子もまた必ずしも母を変わ
らず愛するということでもないということを知らされます。親子と
いう関係は、なかなか難しいものだと知らされます。

 旧約聖書の出エジプト記20章に置かれた十戒の第5戒に「あなた
の父と母を敬え」という有名な言葉があることは良く知られている
ところでありますが、この戒めは、父母を神の与えた相手として敬
うことを求めていると同時に、父母には子は神の与えた相手として
互いに愛し合い重んじあうということを求めていることであります。
そうでないと人間の親子関係はいつも親、子のお互いの都合によっ
て歪んだ関係になって関係を壊してしまうことになりかねないから
です。

 さて、イエスは今日のテキストの中で「わたしの母とはだれか」
と言いました。この言葉を聞いた当時の人々は大変驚いたことだろ
うと思います。血縁を何よりも重視するユダヤ人にとって多くの場
合、自分の母親はだれかということは極めて自明のことであったか
らです。では、イエスはなぜこのようなことを言われたのでしょう
か。それは、神の前において血縁という自然的関係は絶対的な絆と
はならないということであります。

 それは、血縁がどうでもいいということではありません。そうで
はなく自然的な関係に勝るものがあるということです。それは神に
愛され、神を愛する者たちの関係、換言すれば信仰的人格関係とい
う絆こそ人間にとって最も大切なものであるということであります。

 それをイエスは「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、
わたしの兄弟、姉妹、母なのである」という言葉で表現されたので
す。またさらに言えば、御心をおこなうということは、イエスにお
いて表された神の愛を生きるということ。そのことにおいてお互い
は新しい神の家族(社会共同体)を形成するのだということであり
ます。

 戦後、大磯にエリザベスサンダースホームを創設し、混血孤児の
養育に生涯を捧げた澤田美喜氏は、汽車の網棚から発見された嬰児
の遺体を巡り嫌疑をかけられた時に「わたしはこの子たちの母とな
ろう」と決意されたといわれますが、同氏の思いはまさに今日のイ
エスの言葉の生きた証であったと思われます。

 今日私たちも母の日を覚えていますが、礼拝の中で母の存在を覚
えることの大切さを改めて考えおきたいと思います。そして、母を
人格として大切にすると同時、に教会において血縁に勝る信仰の絆
を与えられていることを喜びたいと思います。

 また、人間の絆において、これまで母として人生を生きてこられ
た方々の労苦を覚え、神様の祝福を祈ります。

(2006/ 5/14 石井道夫牧師)


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