2006年04月16日

『復活の主の現れ

主たる聖書テキスト: コリントの信徒への手紙一 15章1〜11節


 主イエスが十字架の死を遂げられた後の主イエスのご遺体ですが、
その日のうちに、アリマタヤ出身のヨセフという議員に引き取られ、
亜麻布にくるまれて、岩を掘って造られた墓の中に葬られました。
主イエスは、墓に捨て置かれ、黄泉に降ったのです。貴い犠牲愛を
貫かれ、十字架の死を遂げられた主イエスです。愛は貫かれたが、
ご自身は死んで滅んでしまったのでしょうか。いいえ、神は捨て置
かれませんでした。よみがえりの新しい命を与えられたのです。

 主イエスが死んで葬られたその次の日がユダヤ教では安息日でし
て、何の業をもしてはいけない日でした。そこでその翌日、週の初
めの日の朝早く、ヨハネによる福音書によれば、主イエスの女弟子
の一人、マグダラのマリアが墓を見に行きました。何のために行っ
たのかは、ヨハネ福音書ではわかりません。とにもかくにも、墓に
出かけたマリアは、墓から石が取り除けてあるのを見て、びっくり
仰天いたしました。ペトロのところへ、そしてヨハネ福音書で「愛
弟子」と言われるもう一人の弟子の所へ走るのです。彼らも聞いて
びっくり仰天、競争して墓に駆けつけます。愛弟子がこの競争に勝
って、先に墓の中を除いてみますと、死体を包んであったはずの亜
麻布が置いてあって、主イエスのご遺体はありません。ペトロも中
をのぞいてみました。そして頭覆いも別のところにあるのを見まし
た。そして「信じた」とヨハネ福音書は記していますので、彼らは、
恐れず事態を受け止めたのでしょう。しかし、それでも彼らは「復
活」には思いが及ばなかったのです。マリアは二人が帰った後も墓
の外で泣いていました。そこで、墓の中にいる二人の天使を見つけ、
声を交わすのですが、マリアも復活に思いが及ばず、「わたしの主
が取り去られた」と思っています。ところが、よみがえりの主ご自
身がマグダラのマリアにご自身を現されました。最初彼女はわかり
ませんでした。しかし、会話を進めていくうちに、よみがえりの主
であることがわかり、「ラボニ(先生)」と呼びかけたのです。ここ
に出会いが成立し、彼女は復活の証人となりました。

 最初に墓が空虚であることが発見されました。しかし、それだけ
では、マグダラのマリアもそうであったように、復活はわかりませ
ん。よみがえりの主に確かに出会った、そういう体験を持った人に
よって、主イエス・キリストのよみがえりが伝えられていくのです。
よみがえりの主は、多くの人にご自身を現されました。12弟子やマ
グダラのマリアたちばかりでなく、その他大勢の人々、そして、使
徒パウロにもご自身を示されました。使徒パウロも復活の証人でし
た。そして、この「神は、主イエスをよみがえらせた」という信仰
が、神の愛の福音の証拠、確信の基礎となっていくのです。なぜで
しょうか。

 それは、まず第一に、復活は主イエス・キリストの十字架の苦難
の完成だからです。Tコリント15:3-4で、パウロはその当時の教会
で告白されていた信仰告白を引用して次のように言います。「すな
わち、キリストが聖書に書いてあるとおりにわたしたちの罪のため
に死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり、三
日目に復活したこと…」復活の前に罪の贖いのための十字架の死、
そして黄泉への降りがあって、復活があるのです。十字架上での主
イエスの死、そして黄泉降りは、神の、人類、私たちへの愛を貫徹
するためには、通らなければならない過程でした。しかし、それで
終わってしまっていたとしたら、過去の罪の清算のために主イエス
が滅びに至ったという結果しか残りません。そうではなく、その贖
いの業の完成として、神からの新しい命の付与、それがあってはじ
めて、神の救いの業、愛は完成するのです。私たちにとってその命
はまだ希望に過ぎないかもしれません。主イエスにとっては、真に
犠牲を払われた方として、その命の初穂となったのです。

 そして、「聖書(旧約聖書)に書かれてあるように」とたびたび記
されているように、十字架ばかりでなく、復活も、天地創造のはじ
めより、神の人への愛、人類救済のためのご計画に深く組み込まれ
た出来事だったのです。神の思いつきで復活が起こったのではない。
人の罪を主イエスの犠牲によって贖われた神は、次に人に復活の命
を与えるべく、用意されているのであります。

(2006/04/16 三宅宣幸牧師)

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