2006年04月09日

『下降と高挙

主たる聖書テキスト: フィリピの信徒への手紙 2章5〜11節


 三位一体の神の切なる愛を褒め称えたもの、それが、今日使徒書
としてお読みしたフィリピ2章6-11の部分です。この部分は、フィリ
ピの信徒への手紙の著者パウロの手によるものでなく、当時、教会
で歌われていた賛美歌である、と言われています。

 その内容を見てまいりましょう。キリストは、そもそも神の御子
として、神の身分でいらしたのです。つまり、神と等しいものであ
ったのです。にもかかわらず、人を、私たちを愛するがゆえに、そ
のご自分の栄光のお姿に固執せず、あえて、つまりご自分のご意志
によって、僕(=奴隷)の身分になられたのです。奴隷の身分とは、
罪に苦しんでいる人間の姿を表します。しかも、人間社会の中にお
いて、たとえば王のように、かっこよく、エイヤッと社会改革をす
るわけでもなく、へりくだって、へりくだって、底の底まで下られ、
人々の罪の身代わりとして、あのみじめなさらし首のような十字架
の死を死なれた。それが、キリストを通して示された愛の姿だった
のです。つまり、最も高いところにおわします神が、最も低きとこ
ろにまで降りてこられた…これが、三位一体の信仰の中身なのです。

 さて、私たちクリスチャンは、この三位一体の神を信じているの
ですが、三位一体の神を信じるとは、どういうことを意味するので
しょうか。そもそも「信じる」とはどういうことでしょうか。それ
は、知るとか理解するということとは全く違う世界を意味します。
すなわち、キリスト教について知識を持っているとか、考え方を理
解しているということと、「信じる」ということとは違うのです。
信じるとは、私自身の中に迎え入れること、すなわち、迎え入れて、
それが私自身の血となり、肉となることを意味します。

 もしも、父なる神だけを信じる人がいて、その人は、力と栄光の
お姿だけを受け入れていたとしたら、「私には神がついている」と
いった尊大な信仰をもつということもあり得るかもしれません。し
かし、三位一体の神を信ずる者、キリストを信ずる者は、そうは参
りません。キリストが栄光に固執しなかったように、いい身分に執
着せず、キリストがそうであったように、自分の意志でへりくだり、
キリストがそうであったように、徹底して神のご意志に忠実である
ことが求められる、いや、そういう生き方が中から湧き出でて、は
じめて「キリストを信じている」と言えるのではないでしょうか。

 こういう風に申し上げますと、そんな生き方、面白くない、自分
は、皆の脚光を浴びたいし、人より偉くなって人に上に立ちたいし、
そして、苦労、苦難などというものは何としても避けて通りたい、
そんな風に思われる方も多いかもしれません。しかし、このフィリ
ピの賛美歌には、10-11節の後段があるのです。へりくだって、へり
くだって、十字架の死にまで至った主イエス・キリストを神は捨て
置かれませんで、黄泉からよみがえらせ、そして、天において、主
イエス・キリストに最高の栄誉をお与えになったのです。へりくだ
り→苦難→死が、滅びに至る道程とはならずに、神によって栄光へ
と至る道のりへと変えられたのです。

 私たちの人生も、考えてみますと、最初から最後まで、成功だけ
で終始する人は、決しておりません。皆、例外なく、どこかで挫折、
苦難を体験するのです。そして、私たちは、これまた例外なく、辛
いと感じ、落ち込みます。しかし、神は、その私たちの苦難が及び
もつかないような苦難を味わわれた主イエス・キリストをさえ、高
く引き上げられたのです。まして、私たちの苦難に対して、神が栄
誉をもって引き上げるにどんな困難があるでしょうか。神は、必ず、
私たちを引き上げてくださるのです。

 最後に、私たちは、この手紙がフィリピの協会に宛てて書かれた、
ということに注目しましょう。フィリピの教会は、パウロの伝道活
動を支えた良い教会でした。しかし、それでも教会員かなかなか一
つになれないという問題を抱えておりました。なぜ、一つになりな
いのでしょうか。それは結局は「不信仰」の故なのです。1節に彼は
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の
慰め、霊による交わりがあるなら」つまり、三位一体の神への信仰
があるなら、キリストに倣ってへりくだるはずではないか、と諭し
ているのです。三位一体の神への信仰が問われています。

(2006/04/09 三宅宣幸牧師)

※このページに関するご意見・ご質問は三宅牧師までお寄せ下さい。miyake@aksnet.ne.jp


(C)2001-2006 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.