『罪びとのための死』
主たる聖書テキスト: ローマの信徒への手紙 5章1〜11節
私たち、日本に住む者は、人間関係に関して、非常に繊細な感覚
を持ち合わせています。いつも自分の周囲を見回し、自分自身の位
置を確認しています。相手が自分より上か下か、推し量り、それに
よって言葉遣いも異なってきます。もしも、自分が人よりも少しで
も上だ、と確認したら、その途端尊大になり、人を裁きます。そし
て逆に、人より下と思うと、卑屈になり、言いたいことも言えませ
ん。ユダヤの人々は、基本には神への畏れを持っていましたから、
神の怒りを恐れました。しかし、日本人には、神への畏れは全くあ
りません。もしも、人より上と思った時の尊大さは、ユダヤ人より
もはるかにひどいものとなるのです。神を畏れぬ日本人に、神の怒
りは、厳しく臨むのではないでしょうか。
さて、本日は使徒書テキストとして、ローマの信徒への手紙5章
を与えられましたが、この手紙は、パウロの信仰の集大成でありま
す。パウロとは、どういう人でしょうか。それは、律法学者、自分
が正しい人間である、と信じ込んでいる一人の人間だったのです。
ユダヤ人ですから、人は神の怒りのもとにあるということは重々承
知していました。しかし、彼は一流の律法学者として、律法の細か
い規則に至るまで、きちんと守り、そのことによって、自分は神に
よって義しい(ただしい)とされると考えていました。彼にとって、
自分は義しい人、律法を守れない庶民どもは義しくない、つまり神
から見捨てられた人と考えていました。しかし、どういうきっかけ
かわかりませんが、自分は、律法を守ってはいるが、全く罪のまま
で、いや罪を増しているようなものだ、ということに気づくのです。
神の怒りから逃れられていないということです。その時、彼は主イ
エス・キリストの福音に出会うのです。人間の力では、たとえ律法
を守ったとしても償いきれない罪、その罪を神が、御子イエス・キ
リストを遣わして、しかも十字架上で死なせることによって、償っ
てくださった、そのことによって自分は救われ、神の怒りから逃れ
られている、ということに気づくわけです。これを人間の側から言
えば、自分が正しい行いをして、神に良しとされるのではなく、一
切神に委ねる、信仰とも悔い改めとも言い得るでしょうが、それに
よって救われるのであります。神の怒りから解放されるのでありま
す。
が、この救いは、パウロのようなユダヤ人に対してだけでなく、
日本人にも、いや日本人にこそより力強く臨んでいる、ということ
を本日は皆さまにお伝えしたいのであります。ローマ5章では、こ
の信仰による救いに与った時、私たちに与えられる賜物について記
されています。それは一つには平和、一つには誇りです。
まず、平和について。私たち日本人は、いつも他人との比較だけ
に生きておりますから、他人より少しでも勝っている、と思えない
と平和がないのです。しかし、たとえ他人よりも勝っていたとして
も、いつまたその地位を脅かされるか、と考えると気が気ではあり
ません。要するに永久に平和は来ないのです。そして、人との比較
のみですから、「(他人はどうあれ)自分がここにいていい。」とい
う安心感、神による「良し」を得ることができなかったのです。し
かし、聖書の指し示す神は、私たちがまだ不信心で、罪びとであっ
た時、ということは、キリストに反抗していた時どころか、キリス
トを知りもしなかった時から、私たちを愛し、しかもその愛のゆえ
に血を流して、死にまでしてくださったのです。ですから、日本人
にとっても、努力して勉強してはじめてではなく、悔い改めさえす
れば、神はすぐそこにいてくださる、神との平和が与えられるので
す。日本人にとってキリストはすぐそこです。
また、誇りについて言えば、日本人は特に苦難に直面するとなか
なか誇りをもてませんでした。なぜなら、苦難を抱えているという
ことは、その直接の苦しみを負わなければならない、ということば
かりでなく、他人との競争に負ける、脱落者になる、幸せになれな
い、ということを意味したからです。しかし、キリストは、栄光の
姿でではなく、もっとも貧しい、苦難に満ちた姿で私たちに近づい
て来てくださいました。これは、苦難→栄光、という普通ではない
新たな途か開かれたことを意味するのです。日本人にとっても、神
はすぐそこにいて、救いの御手を差し伸べていてくださいます。
(2006/04/02 三宅宣幸牧師)
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