2006年03月19日

『共に苦しむ

主たる聖書テキスト: テモテへの手紙二 1章8〜14節


 先週に引き続いて、霊的危機、魂の危機について考えてまいりま
しょう。霊的危機(魂の危機)は、クリスチャンの場合には、「もう、
クリスチャンをやめてしまいたい」という思いを抱く、という形で
表われて参ります。それは、決して恥ずかしいことではなく、クリ
スチャンで、この霊的危機に襲われた経験のない者は、一人もいな
いのです。旧約の預言者の場合もそうでした。エレミヤは、宗教改
革という使命を帯びて自分が語った言葉が受け入れられず、神殿へ
の立ち入り禁止、逮捕、暗殺の試みといった弾圧にあったとき、
「私は生まれなければよかった。」(エレミヤ書20:14)とまで述べ、
神に対して、「あなたにだまされた」とさえ問いかけているのです。
新約の使徒たちはもちろんのこと、第二世代の人々(使徒や弟子の
さらに弟子の人々)にも、やはり同じような試みが襲ったのではな
いでしょうか。

 本日は、使徒書テキストとして、Uテモテ1:8〜を与えられまし
た。この手紙のあて先とされているテモテは、パウロの第二伝道旅
行の際に見出された青年で、母から信仰を受け継いだ立派な青年、
立派な弟子です。しかし、それでも霊的危機は避けられないのです。
この手紙は、パウロがテモテに宛ててしたためたものとされていま
すが、いろいろの実際的忠告、助言と共に、特に、第二の手紙の冒
頭においては、テモテでも必ず陥るであろう霊的危機に対する対処
法を忠告しているのです。

 それでは、そのパウロの忠告とは何か。それは、8節「むしろ神
の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでくだ
さい。」に尽きるのであります。この8節は翻訳が微妙なところでし
て、新共同訳のように「苦しみを忍んでください。」と訳すと、日
本語では、「苦しみはいやなことだが、我慢しましょう。」という
ニュアンスに受け取られます。しかし、ギリシャ語本文の動詞の意
味は、「共に苦しみなさい」です。そして、「わたしと共に」も、
原文にはありません。要するに、クリスチャンとして生きていく上
での、あまりの辛さ、苦しさに、「もうだめだ」と神に訴え、クリ
スチャンであること自体をやめたい、とまで思う、そういう霊的危
機にある人へに対して、聖書の忠告は、「今は辛いことがあるが、
やがてよいことがあるかもしれない。」ではなくて、「苦しみなさ
い。」なのであります。

 冷たい、と感じる人もいるかもしれません。しかし、そうではあ
りません。ここには、大きな祝福のメッセージが込められているの
です。なぜ、どうして、苦しみに祝福が込められているなどという
ことがあるのでしょうか。それは、クリスチャンになったというこ
と自体が、あなたが「自分の好み」でそうなったことではなく、神
によって召された出来事そのものだからなのです。そして、神はあ
なたに仕事をさせるために召したのです。その仕事とは何でしょう
か。それが、なんとも苦労が多い仕事なのです。いや、必ず苦しむ、
と言ってもよい。どんな苦しみなのか。それは、神は人によってま
ったく違うものをお与えになっておられますから、私が人の苦しみ
について判断することもできないし、人から「これは神によって与
えられた苦しみだ」と言われる筋合いもまったくありません。ただ、
経験法則から言えることは、(もちろん、神様の御心は窺い知ること
はできませんが)神は、どうやら能力のある人(賜物)ほど、多くの苦
しみをお与えになるらしい、ということは言える気がするのであり
ます。テモテも、多くの賜物を与えられた人であったようでありま
す。(6節)

 しかし、そういわれても苦しみがつらく、できることなら避けた
いものであることは変わりません。いったい苦しみにどんな祝福が
伴っているというのでしょうか。それは、苦しむことにより、キリ
ストが近くなるのです。イエス・キリストのお苦しみが他人事では
なくなってくるのです。それを聖書では、「キリストの苦しみに与
る」と申します。そうすると、キリストの喜びにも、つまり、よみ
がえりの希望にもより近づくのであります。

 世間では、苦しみはできる限り避けることが幸福への道と教えて
います。しかし、聖書では、「苦しみを諦める」をも超えて、「苦
しみなさい。」と教える。なぜか? そこに十字架と復活の道が用意
されているからであります。

(2006/03/19 三宅宣幸牧師)

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