『試練の意味』
主たる聖書テキスト: マルコによる福音書 1章12〜15節
悪魔のイエスに対する最初の誘惑は「神の子なら、これらの石が
パンになるように命じたらどうだ」という言葉です。この言葉は、
断食後空腹の状態にあるイエスに対し最も適切な助言でした。
しかし、イエスはこの誘惑には乗りません。それは、かつて祖先
イスラエルがシナイの荒れ野で飢えた時、パンや水がないと不平を
言い(出エジプト16、17章)「果たして、主は我々のあいだに
おられるのか」と言って、モーセと争い、主を試したということが
あったからです。こうしたイスラエルの人々の態度を通して知るこ
とは、人間というものは、誰でも限界状況に置かれると、神との関
係よりも現実問題の解決を第1に考えてしまい、神を忘れ問題の解
決さえ出来ればそれでよいと考えてしまうのではないかということ
です。「石をパンに変えたらどうか」という悪魔の言葉がそのこと
をよく示しています。また同時に悪魔は、このような人間の弱い現
実を知りつつそこに親切そうに入り込んで本当の目的である「信頼
関係の破壊」を実現しようとするのです。
しかし、イエスの悪魔への答えとなった言葉が置かれた申命記8
章は、荒れ野の生活は「神に信頼する」訓練のためであったとその
意味を述べています。
ところで、イエスが神の子であるということはどうして証明され
るのでしょうか。目に見える形で具体的に証明出来るものは何一つ
ありません。ただ、イエスが洗礼をお受けになった時、「あなたは
わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声があっ
たというだけです。イエスはその神様の言葉に信頼する以外に、ご
自分が神の子であるということを確信することは出来ません。悪魔
もそのことは知っていました。だからその信頼が具体的に確かめら
れる方法がある。今の空腹も満たすことが出来る。だから「石がパ
ンになるように命じたらどうだ」と言ったのです。
しかしイエスは、言葉(信頼)を物(証明)に置き換えることに
よって確かめようとはされません。信頼を物に置き換えて考えよう
としたその時、そこに本当の信頼は無いということが分かってしま
うからです。
第2の誘惑の舞台は神殿の屋根です。悪魔は屋根の端にイエスを
立たせ「神の子なら、飛び降りたらどうだ。神があなたのために天
使たちに命じると…天使たちは手であなたを支える」と旧約聖書9
1編の言葉を持ち出し再びイエスに対する神の信頼を目に見える仕
方で確かめるよう誘惑します。悪魔は巧妙です。イエスが聖書の言
葉を使ったと見るや、今度はそれを逆手に取って誘惑の手段にして
います。悪魔の考える信頼の証明は「現実的証拠主義、目に見える
救い」です。
マタイ福音書の受難物語の記事の中に、イエスに対して人々が
「今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば、信じてやろう。神
に頼っているが、神の御心ならば今すぐ救ってもらえ。わたしは神
の子だと言っていたのだから。」という箇所がありますが、悪魔の
第2の誘惑はこの人々の言葉と共通するものがあります。
聖書の言葉による誘惑は、聖書の言葉によって決着がつけられま
した。イエスの示されたのは「神を試してはならない」という言葉
です。目に見える仕方で信頼が確認出来ることは分かりやすいこと
ですが、信頼は確かめようとした瞬間損なわれるということを知ら
なければなりません。信頼はどこまでも信頼するしかないのです。
ここに信頼の難しさがあります。
第3の誘惑は非常に高い山で行われました。そこから悪魔は繁栄
する世界を見せ「これをみんな与えよう」と言います。世界を自分
のものとして支配する。神の子にとってこれほど相応しいことはあ
りません。しかし、そのためには悪魔を拝まなければなりません。
そして、悪魔を拝むことになれば、それは必然的に神を拝まないと
いうことになってしまうことになります。
マルコ福音書8章には、ペトロがイエスに「あなたはメシア生け
る神の子です。」と信仰を告白する場面がありますが、その直後、
イエスはご自分が苦難の死を遂げ復活することになっていると教え
られています。この箇所で大事な言葉は「〜になっている」という
言葉です。これは神のご計画について語られる時に使われる言葉と
されています。使徒信条的に言えば「ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の
うちよりよみがえることによって世界を支配される方であります。
しかし、そのことが分からない人間はあのペトロのように「主よ、
とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさ
めるのです。けれども、その時主イエスは何と言われたか。「サタ
ンよ引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わ
ず、人間のことを思っている。」と言われます。そして、「わたし
について来たい者は、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい…。」
と続けられるのです。
「ひれ伏して自分を拝めば世界の全てを与えよう」という悪魔の
誘惑はただ一言の言葉で退けられます。「あなたの神である主を拝
み、ただ主に仕えよ」。
(2006/03/05 石井道夫牧師)
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