『教会のいやし』
主たる聖書テキスト: ヤコブの手紙 5章13〜16節
本日は使徒書テキストとして、ヤコブの手紙を与えられました。
このヤコブの手紙は、紀元後150年ごろ、教会の組織も少しずつ安定
してきた時に、教会の中で起こる日常問題に対処するために記され
た、と考えられています。日常の問題とは何か。本日はヤコブの手
紙の一番最後のところがテキストとして与えられています。最後の
ところですから、著者が最も気がかりなことを記しているに違いあ
りません。それは何かといえば、病気の人のことです。今健康な人
は、病気に対して傲慢ですが、私たちは実は病気に対して無力です。
どんなに頑強そうな人でも、風邪一つで倒れます。もちろん、医学
が進んで治せる病気も増えてきました。しかし、また新たな難病が
発生し、私たちの目の前には、いつでも打ち勝つことのできない病
気があるのです。その無力感にどう対処したらいいのか、これは教
会にとりましても大きな課題です。初代教会の人々はどう対処した
のでしょうか。
ヤコブの手紙では、教会内で病気の人が出た時は次のようにしな
さい、と言っています。14節「あなた方の中で病気の人は、教会の
長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいな
さい。」第一に、教会の長老を呼ぶこと、第二に、(主の名によって)
オリーブ油を塗ること、そして第三に、祈ってもらうことが勧めら
れているのです。そこで「教会の長老を招く」ということに注目し
てみましょう。なぜなのでしょうか。第一の理由は、当時教会の中
に病気を治す賜物を与えられた人がいたかもしれない、ということ
です。Tコリント12章は、教会の中の人々に与えられるさまざまな
賜物についてふれています。第一に挙げられているのが使徒、第二
が預言者、第三が教師なのですが、その次に「奇跡を行う者」、そ
してその次に「病気を癒す賜物を有する者」が挙げられているので
す。この人たちがどのような癒しを行ったか、はわかりません。し
かし、病気をいやす力を持った人がいたことは確かです。ですから、
「長老」と言われた時、そのような病気を癒す能力を持った人を考
えるのが一つの考え方です。
しかし、もう一つの考え方として、病気の人は、必要な治療を医
師に施してもらった上で、(病気を治す賜物を持った人ではない)教
会の長老を招いて「主の名によって、オリーブ油を塗り」(この場合
には、オリーブ油は単なるしるしです)、純粋に祈ってもらう、とい
うふうにも考えられます。そして、時代背景などを考え合わせると、
ヤコブの手紙のあてられた教会では、このように行われていたので
はないか、と思われるのです。
それではなぜ、他ならぬ「長老たち」の祈りが必要とされるので
しょうか。長老とはどのような人たちなのでしょうか。イスラエル
においては、「長老たち」とは、年長者にして、部族の長、後には
議会(サンヒドリン)の議員ともなった人々のことでした。主イエス
を十字架刑へと追いやったのもこの人々です。ヤコブの手紙は、病
気の時、このように政治家(せいじや)とも言える長老を呼んで、祈
ってもらうことを勧めているのでしょうか。違うのではないでしょ
うか。第二に、キリスト教会では、特に改革派(長老)教会において、
信徒の訓練という職務を与えられた人々を「長老」と呼びます。ヤ
コブの手紙は、ここで、長老教会の長老のように、信徒の訓練に携
わる人に来てもらって、祈ってもらいなさい、と言っているのでし
ょうか。やはり、そうでもないようなのです。
それでは、ヤコブの手紙がここで言う「長老」はどのような人た
ちなのかと言えば、それは、エフェソの教会の「長老」のような人
々なのです。パウロは、第三伝道旅行の最後、ミレトスに呼び寄せ
たエフェソ教会の長老に別れを告げます。その時、パウロが、自分
が死ぬ覚悟であることを告げると、長老たちは、激しく泣き、パウ
ロのために祈りました。このようにパウロを愛してやまない長老た
ちに、パウロは「監督」としての職務を与えました。すなわち、教
会を外敵から守り、内側から出る異端者から守り、そして「弱い人
を助ける」職務です。ヤコブの手紙が言う長老はこのような「監督」
としての 長老なのです。
それでは、長老の祈りがなぜ必要なのでしょうか。それは、長老
が真に主に用いられている時、その祈りは、「とりなしの祈り」と
なるからです。私たちも「とりなしの祈り」を祈る者へと作り変え
られていきたいものです。
(2006/02/26 三宅宣幸牧師)
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