『キリストに結ばれて』
主たる聖書テキスト: コロサイの信徒への手紙 2章16〜19節
本日の使徒書コロサイの信徒への手紙ですが、これは、コロサイ
の町にある教会に宛てて記された手紙でした。それでは、コロサイ
の町はどのような町で、教会はどのような教会だったのでしょうか。
コロサイという町は、小アジア(今のトルコ)にあったギリシャ人の
植民都市です。毛織物工業が盛んで、また交通の要衝にあったこと
から、「広大なる都市」と呼ばれていました。大変栄えていたよう
です。コロサイの教会は、パウロの同労者エパフロデトの伝道によ
ってつくられましたが、この手紙が書かれた当時は、まだ迫害もな
く、順調に発展していました。ただ、教会の特色として、こういう
町の教会ですから、教会員が大変豊かで、誇り高く、しかも文化的
に進んだギリシャ人としての誇りを持っていたことが想像されるの
です。そして、その特色と裏腹の問題点として、教会員が洗礼を受
けてクリスチャンになって新しい生活を始めたはずなのに、生活を
変えない、クリスチャンになる前と同じ生活をしている、しかもそ
れは、日常生活の事柄についてばかりでなく、精神面においても、
その当時、コロサイに住む多くの人々が持っていた「哲学」という
名の信仰に相変わらず、引っ張られていた、そういういうことなの
です。
パウロはあからさまには申しません。しかし、このままではコロ
サイの教会は滅びるということで、そのことを祈りのうちに神の御
心として示され、この手紙を書いたのです。パウロは警告をいたし
ました。しかし、この警告は聞かれたのでしょうか。聞かれなかっ
たのでしょうか。この手紙の後日談について、私たちにはわかりま
せん。しかし、私たちにわかっている事実は、現在では、コロサイ
の教会はないということ、コロサイの町自体も、遺跡だけしか残っ
ていないということであります。教会の滅びは、実は、迫害からで
はなく、主の教えからそれて別のところへ行く、ということから始
まるのではないでしょうか。教会が教えからそれてしまったら、旧
約時代のバビロン捕囚のように、一旦滅びて、出直すしかない。教
会の歴史は私たちにそのような教訓を残しているのではないでしょ
うか。
しかし、滅びに定めることに神の目的があるのではありません。
それは、私たちに悔い改めのチャンスを与えるためのやむにやまれ
ぬ処置なのです。ゆえに、滅びに至る前に気付いてほしい、それが
パウロの願いでした。その悔い改めに至る三つの指針がコロサイ2:
16-19に記されているのです。
第一に、教会は、この世の人の考えに基づいた批評、批判を拒否
するということです。私たちは「教会は文化的に劣っている」とい
った批判を受けると、小さくなってしまいます。しかし、そういう
批評を気にしてはならないし、耳を傾けてはならないというのです。
なぜでしょうか。それは、私たちが教会で、創造主にして贖い主な
る神、主イエス・キリストを拝んでいるからです。キリストは私た
ちに高度の文化を示してくださったのではなく、私たちの罪を贖う
ために、小さく、貧しくなって下さったのです。ですから、私たち
も貧しさ、乏しさをこそ誇るべきであって、高度の文化を誇るとこ
ろに福音はないのです。
第二に、この世の価値観からする「裁き」を跳ね除けなさい、と
いうことです。裁きとは、「不利な判断」です。しかし、ここでの
問題点は、不当な裁きをする世が悪い、ということではなく、教会
が不当な裁きに屈してはならない、ということです。なぜでしょう
か。それは、クリスチャンにとって本当の裁き主は神のみだからで
す。私たちが、神以外のものを畏れるとき、私たちは福音からそれ
てしまっているのではないでしょうか。
そして、第三は、キリストにしっかり結びつきなさい、というこ
とです。しかし、ここで言われていることにはもう一つの意味があ
ります。それは、ほかに目を向けてはいけない、ということです。
この世の基準による批判や裁きに、心騒がせたり、動揺したりする
のは、クリスチャンがキリストだけを見ているのではないからなの
ではないでしょうか。本心はクリスチャンになる前とちっとも変わ
らず、この世の価値観にどっぷりつかり、生活も変わっていないか
らではないでしょうか。すべてのものの造り主、そして贖い主が共
にいてくださったら、どうしてこの世が怖いことがあるでしょうか。
「他を捨てて」しっかりキリストにつながりましょう。
(2006/02/12 三宅宣幸牧師)
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