2006年01月29日

『新しい神殿

主たる聖書テキスト: コリントの信徒への手紙一6章12〜20節


 第2聖日の説教で、洗礼とは(キリストの十字架の死に与ること
によって)罪に支配されている古い自分に死に、(キリストの復活
に与ることによって)新しい自分に生きるという出来事ですと説明
しました。この説明を本日の聖書テキストと関連させて換言すれば、
洗礼とは、罪の奴隷となっていた私たち人間がキリストによって罪
の支配から解放され「自由な存在」となって生きることが出来るよ
うになったということです。パウロは「この自由を得させるために、
キリストはわたしたちを自由な身にしてくださったのです」(ガラ
テヤ書5章)と語っています。自由な身になる。これほど喜ばしい
ことは他にないのではないでしょうか。

 しかし当時のコリントの教会には、この自由を巡る深刻な問題が
ありました。「わたしには、すべてのことは許されている」という
言葉が2度繰返されていますが、これは当時のコリントの教会で、
パウロに敵対する人たちの口癖でした。彼らは、自分たちは終末の
完成を先取りしていると自負し、自分たちだけが特別な立場や信仰
の認識を持っていると考え「わたしには、すべてのことは許されて
いる」と言いながら実際の生活では「みだらな行いに耽っていまし
た。しかし、パウロはそのような敵対者のみだらな行いは、間違っ
ていると考えました。それは「体はみだらな行いのためではなく、
主のためにあり、主は体のためにおられる」からです。

 パウロは、みだらな行いは彼らにとって自由ではあるかも知れな
いが、決して信仰にとって益となるものではないと考えました。そ
れは、すべてのものは許されているという言葉のもとに行われる
「肉の業」に過ぎないからであり、そのような行いは決して信仰的
な生き方とは言えないからです。また、パウロはこのようなみだら
な行いは教会という信仰共同体にとっても好ましくないと考えまし
た。それはキリストの体である教会を損なわせる行為に他ならなか
ったからです。

 本日は洗礼の話から始めましたが、ひとは洗礼を受けることによ
ってキリストとひとつになり、同時にキリストの体である教会の一
員(生きた枝)として加えられます。こうしてキリストの教会が形
成されて行きます。しかし、その中にキリスト以外のもの(娼婦)
に支配され、それとひとつになっているものがいては、教会が教会
として形成されません。だから、パウロはみだらな行いは避けなけ
ればと訴えるのです。

 また、1コリント書(6章9節))には「罪のリスト」と呼ばれ
る一連の言葉がありますが、リストの終りが「このような者は神の
国を受け継ぐことはできない」という言葉で結ばれていることは。
注目しておかなければなりません。では「みだらな行いをする者」
がどうして神の国に入ることができないのでしょうか。それは、洗
礼を受けキリストのものとなったキリスト者の「体」は、神からい
ただいた聖霊が宿っておられる神殿だからです。だから、その特別
な体を聖霊のためではない他の目的のために使ってはならないので
す。また、そのような行為は神の聖霊を悲しませることになり、結
局聖霊の住まいである自分の体を汚すことになるからです。

 本日のテキストの最後に「あなたがたはもはや自分自身のもので
はないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
だから自分の体で神の栄光を現しなさい。」という言葉があります。

 ここに、キリストと私たちの関係、私たちのなすべきことが明確
に語られています。「代価を払って買い取られた」という言葉は、
元来奴隷が自由にされる時の手続きの言葉です。奴隷が主人から自
由になるためにある人によって代価が支払われます。そして支払っ
た人が今度は奴隷の新しい主人、支配者になります。私たちの場合、
それは神ご自身であり代価はイエス・キリストの十字架の死であり、
わたしたちはこのようにしてキリストによって生かされている存在
になっているのです。だから私たちが私のために代価を払い(罪の
支配から自由に解放し、新しく生かしてくださる方のために喜んで
生きるのはごく当たり前のことです。それは、新しいご主人である
キリストが最も喜んでくださることだからです。

 最後に「自分の体で神の栄光を現すこと」それは、私たちが自ら
の生活を神に向け、礼拝者となって生きることです。本日の礼拝も
「新しい神殿」キリストの体としての教会に相応しく献げましょう。
また、一人ひとりが聖霊が宿ってくださっている体を大切にし、神
の栄光のために働きましょう。

(2006/01/29 石井道夫牧師)


※このページに関するご意見・ご質問は三宅牧師までお寄せ下さい。miyake@aksnet.ne.jp


(C)2001-2006 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.