2006年01月22日

『聖霊によって語る

主たる聖書テキスト: ペトロの手紙一1章3〜12節


 本日は、使徒書テキストとして、ペトロの手紙一1:3〜12を与えら
れました。
 このペトロの手紙はキリスト以後間もなくの頃、迫害の只中にあ
るクリスチャンを励ます目的で書かれました。クリスチャンに対す
る迫害は、最初は、ファリサイ派など、同じ聖書の民でありながら、
考え方の違う人々から加えられました。しかし間もなく、この宗教
(キリスト教)が権力にとって危険である、ということを察知したロ
ーマ帝国によって迫害がなされるようになります。すでに60年代に
はネロ帝による迫害がありました。そして、90年代に入ると、ドミ
ティアヌス帝による定刻の組織をあげての迫害が行われるようにな
ってまいります。クリスチャンは捕えられ、拷問にかけられ、殺さ
れていきました。

 このような厳しい迫害の中で、クリスチャンにどのようにして励
ましと慰めとが与えられたのでしょうか。手紙の冒頭、1:3〜12には、
すでに慰めと励ましの三つのキーワードが記されています。

 第一は、3節にある「希望」です。今は、クリスチャンは苦しみの
中でお先真っ暗かもしれません。その中でうろたえたり、後ろを向
いたり、あるいは信仰そのものも失いかねない中にいます。しかし
クリスチャンにとっては、今の現実で事は終わってしまわないので
す。希望が与えられている。そのことを忘れてはいけない。これが
第一です。

 そして第二は、4節にある「財産」です。このことばは、「嗣業」
と訳されることもあります。なぜ、クリスチャンが希望を持つこと
ができるのか。それは、今はお先真っ暗でも、終末の時、神がみ心
をなされるその時には、クリスチャンには居場所が用意されている。
財産、土地が用意されているからなのです。

 そして第三は、これが最大のものなのですが、ゆえにクリスチャ
ンには「魂の救い」が与えられているのです。この世で財産を持っ
ていること、この世で社会的地位を備えられていること、これらも
それなりに救いになるかもしれません。しかし、この世に属するも
のはいつ失せるとも知れず、そしてその命の終焉と共に、すべて完
璧に消え失せます。クリスチャンはこの世の救いは持っていないか
もしれない。失っているかもしれない。が、神の国の保証を得るこ
とにより、魂の救いを得ているのです。

 要するに、クリスチャンにとって、当面、迫害する権力が本当に
大きなものとして迫ってきているように見えるかもしれませんが、
やがては朽ちる権力ではなく、クリスチャンは、今は見えなくとも、
朽ちる権力が到底及びもつかない、朽ちない望みを持っているでは
ないか、ということなのであります。

 何と力強い励ましと慰めでしょうか。このことばによってどれだ
け多くのクリスチャンが励まされ、慰められてきたことでしょうか。
しかし、もしこれがただの言葉だけの慰め、励ましだったとしたら…
そんなことはありません。この救いの保証は、11節にある、キリス
トの苦難とそれに続く栄光、にあるのです。

 私たちは、苦しみに遭うと、「自分がこんなに苦しんでいるのに、
神はどうしておられるの、だ。」と思うかもしれません。しかし、
神はクリスチャンの苦しみを見過ごしにされておられるわけではあ
りません。神ご自身が、キリストを通して、十字架にかかって死ぬ、
という最大の苦しみを苦しみ、しかも私たちが苦しみを逃れること
のできないそもそもの根本原因である罪を贖ってくださり、さらに
は、復活することにより、その罪への勝利を勝ち取ってくださった、
そこまでして下さったからであります。

 そして、これは物語ではなく、事実起こったことであり、起こり
続けていることなのです。

 最後に、口先だけでない、まことの慰めとなるみ言葉に、私たち
の目と心を向けましょう。5節「あなたがたは、…信仰によって守ら
れています。」苦しみにある時、私たちは神によって守られている
のです。神の懐に抱かれているのです。神は、お母様が幼いわが子
を抱きかかえるようにして、苦しみや困難の中でも、少しでも苦し
みや困難の寒風が当たらぬよう、盾となり、ご自分が、苦しみや困
難をまともに受けていてくださるのです。私たちがもし信仰を持っ
て、目を心を神に向けるならば、その愛に気付くはずです。心を神
に向け、安心して歩んで参りましょう。

(2006/01/22 三宅宣幸牧師)


※このページに関するご意見・ご質問は三宅牧師までお寄せ下さい。miyake@aksnet.ne.jp


(C)2001-2006 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.