2006年01月08日

『イエスの受洗

主たる聖書テキスト: マルコによる福音書1章9〜11節


 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来てくださっ
た(テモテ1・1:15)。」私たちが先に迎えた主のご降誕の意
味は、このみ言葉に端的に示されています。そして主イエスはこの
み言の実現のために生涯を歩まれました。主の生涯のどの出来事も
罪人の救いと関係のないものはありません。主のご受洗も同様です。
ヨハネは洗礼を「思いとどまらせようとした」とありますが、主は
「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい」と言われ、洗
礼をお受けになりました。正しいこととは、神が罪人の救いのため
に必要と思われたことという意味です。では、主のご受洗の意味は
どこにあるのでしょうか。

 第1は、神は私たち人間を救うために、神の子イエスを人間と同じ
立場に置かれたということです。主が、罪ある人間が受けるための
洗礼を受けられたのはそのためです。どんな立派な救い主であった
としても、私たち人間の泥にまみれた、悩み苦しみに満ちた生活と
関係のない救い主であっては、私たちはその方を本当に信じて心か
ら従って行くことは出来ません。しかし、主はいま洗礼という出来
事を通して、私たち罪人の中に深くご自身を置き連帯してくださる
のです。ここに主のご受洗の本当の意味があります。主のご受洗は、
私たちとあまり関係のないように思われるかも知れませんが、私た
ち罪人の救いに深く関わる出来事であったということを知るとき罪
に苦しむ者にとってはきっと大きな慰めになるに違いありません。

 第2は、主イエスに対し「これはわたしの愛する子、わたしの心に
適う者という声が天から聞こえた。」ということです。これは詩編
第2編の言葉であり、旧約では、神が王を立てる時にその王に対する
喜びの言葉として述べられたものです。神はこの言葉を主イエスに
お与えになることによって、他の誰でもない、神の子である自分に
しか成し遂げることが出来ない、救い主としての働きが使命として
与えられていることを確信させるとともに、主イエスが、使命を遂
行される時に必ず神が守ってくださることを約束されたということ
であります。

 また、この天からの声は、イザヤ書42章の「しかし見よ、わた
しの僕、わたしが支えるものを。わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ・・・。」という言葉にも関係してい
ます。ここで大切なことは、主が神からわたしの僕と呼ばれている
ことです。僕とは奴隷のことです。主は奴隷のように神の御心に忠
実に従う者として召されているのです。そしてその御心に忠実に生
きることによって罪人の救いが実現することを確かめさせられるこ
とが天からの声の中に込められていました。フィリピの信徒への手
紙2章には「キリストは・・・僕の身分になり、人間と同じ者になら
れました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも
十字架の死に至るまで従順でした。このため神はキリストを高く上
げ・・・。」という言葉がありますが、この言葉はまさに神の救い
のために徹底して神の僕となられた主のお姿が示されています。

 第3は、イザヤ書42章の約束の通り、主イエスに聖霊が降ったと
いうことです。(旧約以来)聖霊が与えられるということは、その
者が神の業を為すという立場に置かれたということを意味します。
つまり、イエスは神の救いの業を伝達する者ではなく「神の業、神
の救い」そのものであるということです。そして、聖霊を与えられ
た主は、罪人である私たちに救いを与えるために、自分自身を与え
る生活を十字架の死にいたるまで続けられたということなのです。

 こうして、考えてみると主イエスのご受洗の出来事は、実に私た
ちの救いに深く関係していることが分かります。また、そのことが
分かると、神が主イエスにおいていかに私たちを深く愛してくださ
っているかが分かって来ます。

 福音書は、主イエスの公生涯の最初に起こった出来事として主の
ご受洗を伝えます。主はこの出来事によって救い主としての使命を
確信され十字架の道を進まれました。今日の主を信じる私たちもま
た、洗礼を通して与えられている聖霊の力に満たされて、主が生涯
にわたってなさったように、心から神を信頼しつつ、新しい年の歩
みを確かなものとしたいと思います。

 (2006/01/08 石井道夫牧師)


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